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自転車旅日記(海外編)

旅日記を書こうと思います。
代表者 氏本が大学時代に自転車で旅した海外の写真とその時の思い出を、少しずつですが公開したいと思います。お楽しみに。

アルプスの峠サイクリング その1


私は、1986年の夏から87年の2月まで、欧州・中東をサイクリングしました。 その時の写真をすこしずつご紹介いたします。 左は、スイスのNUFENEN峠。 1986年8月15日。 峠からは、アイガー、メンヒ、ユングフラウなど、登山家でなくとも聞いたことがある名峰が望めます。 スイスは、物価が高かったけど、治安もよく、サイクリストにとって素晴らしい環境です。




アルプスの峠サイクリング その2


その1のNufenen峠では、Tシャツ、短パンでしたが、一週間後のFuorn峠では、ご覧のような雪になりました。 ふもとの町では雨だったのが、標高が上がるとともに白いものが混じりだし、峠は純白の世界。まだ8月なのに・・。 アルプスの怖さをしりました。







アルプスの峠サイクリング その3


峠は、スイスの一番東の端で、イタリアとの国境です。 この日は、サンタマリアという街のユースホステルに荷物を置いて、イタリア・スイス2カ国のサイクリングを楽しみました。先日の雪が峠に残っています。
後方は、Scorluzzo山、3094m。 この峠は、昔 タイヤのコマーシャルかなにかに使われた、ものすごいつづら折れをえっちらおっちらと登ってゆきます。スイスならではの素敵な峠でした。




イングランド・ウェールズサイクリング その1


ヨーロッパアルプスで8月の雪を体験し、9月前半はドイツを北上。ハンブルグ港から、英国のHarwich港へ上陸。イングランドとウェールズをサイクリングしました。 写真は、英国最南部のPlymouth港へむかう道。高い山こそありませんが、すごいアップダウンで往生しました。 景色はどこもめちゃくちゃ綺麗。特にウェールズの美しさはたとえようもありませんでした。 今はわかりませんが、ユースホステルもすごくたくさんあって安い!500円くらいで宿泊したような記憶があります。「あなたは、初めての日本人よ!」というところもありました。 英国では昼ごはんは、フィッシュ&チップスでパワー全開カロリー全開です!




イングランド・ウェールズサイクリング その2


ウェールズで立ち寄った、世界一長い名前の駅。 ウェールズもイングランドも保存鉄道が非常にたくさんあります。 過去、石炭や屋根に乗せるスレートを運び出すために作った小さな鉄道を観光用に保存している例が多い。マニア憧れですね。 鉄道だけでなく、途中ヴィンテージバイクの集団に出会ったり、英国軍の基地内に、ミリタリーミュージアムというのがあって、第二次大戦の戦車や戦闘機が保存してあったり。英国人ってやっぱりすごい。ビートルズやパンクを生み出しながらもそういうものを大切に保存しています。




スペイン・ポルトガルサイクリング その1



アメリカへ、清教徒が渡った、英国のPlymouth港から船でスペインSantanderについたのは、1986年10月9日。英国は天気が変わりやすく、小雨の中走ることが多かったですが、さすがにスペインは乾いた大地がどこまでも続いていました。ほとんどが牧草地だった英国と比べ、スペインは、コルク樫、ひまわり、小麦、背の低いブドウ、オリーブなど。 気候もよく、雨に降られたことは1日だけ。快適なサイクリングでした。  自転車の後ろにある看板のBurgosは、サンチアゴ巡礼の中間地点として有名です。が、この当時、スペインにそんな巡礼の道があるなど知らず、通り過ぎてしまいました。一生のうち、またチャンスがあれば900km歩いてみたいと思います。




スペイン・ポルトガルサイクリング その2


同じ欧州(と、日本人は思っている)でも、国によって気質は大きく違います。 英国は、紳士の国、相手が困っていなければ無関心(を装うの)が流儀と見ました。これは、大人も子供もしかり。 が、スペインは違います。自転車に荷物を積んで小学校のそばをサイクリングしようものなら「Cino! Cino!(チーノ!チーノ!=中国人だ!)」と、どどっと集まってきます。 写真は、バルセロナのグエル公園にて。




スペイン・ポルトガルサイクリング その3


イベリア半島は1986年10月9日から11月26日まで48日間滞在。うちポルトガルは、全部で7日間滞在でした。写真は、リスボンから少し離れたところで野宿の図。まわりの松の木は、幹にキズをつけて「松やに」をとっています。ポルトガルはスペインに比べて宿泊環境がやや未整備だったので、何回か野宿・キャンプしました。なんと、7日間の滞在費は9000円。それでも、ポルトガルのお金が余って、出国前に3本ワインを買ってサイクリングしたのを覚えてます。 ちなみに、スペインは当時から観光に力を入れておりました。具体的に私が一番役に立ったのは、ホテルとレストランの格付けでした。ホテルは★、レストランはフォークの数でだいたいの料金がわかり、かつレストランは、定食(セットメニュー)を準備しなければならない決まりになっていました。日本人である私は、毎日のようにパエリャ・ガスパチョ(トマトの冷たいスープ)を楽しみ、ワインを昼からがぶ飲み、肉をほうばっていました。それでも一食600円くらいでしたから、今とはずいぶん物価が違いますね。




スペイン ポルトガル サイクリング その4


リスボンは坂の町。  写真のように、渋い色合いの街でした。 まだ記憶に残っているのは、
1.イワシの塩焼き街には、立ち食いのバーがたくさんあって、鉄板にイワシを並べて、塩焼きにしていました。  それをつまみに飲むビールのうまかったこと! お客さんは、イワシの骨と紙ナプキンを床に捨てます。 人気のある店ほど、べとべとになったゴミだらけの床の上で飲むことになります。
2.治安は良くない  骨董市の人ごみはスリが多いので有名。他にも街を歩いていると、向こうから怪しげなおっさんがやってきて、上着の内側を見せて「Do you want ●●●?」 もちろん手はだしていませんが。




スペイン ポルトガル サイクリング その5


スペインに限らず、欧州を走っていると、たくさんのサイクルツーリストに出会います。
サイクルツーリストにとって、欧州がいいところは、
1.アフリカや南米に比べて治安がいい。
2.小さな国が地続きなので、自転車の移動距離でも、様々な文化・習慣に出会える。
3.歴史も古く、モニュメントも多い。
4.道も整備されているうえ、サイクルツーリストへの理解が深い。
5.自転車産業そのものが盛んで、部品の調達に困らない。  
特に、自分が旅をして一番のメリットを感じたのは、5でした。
この条件がそろっているのは、日本か欧州(北米も?)しかないと思います。 サイクリングって最高!







フランスサイクリング その1


フランスは、夏のシャモニー近辺、秋の地中海沿岸をサイクリングしました。 写真は、フランスパンをサイドバッグに積んで走る私の愛車です。 フランスは何と言っても食べ物ですねー!残念なことに言葉の問題もあって、レストランでほとんど食べなかったのですが、それでもスーパーマーケットには、チーズとハムが別コーナーになっていて、切り売りで楽しめました。チーズは、牛の乳だけでなく、ヤギや水牛のような変わったものがあったり、表面に白カビをつけたものや、中に青カビが生えているもの、表面にスパイス類をまぶしたものなど、選ぶのに困るほど。

1986年当時「雪印」か「明治」か、の選択肢しかなかった日本人には衝撃的でした。 ハムも、日本でもあるようなものから、生ハム、レバーソーセージ、オリーブや香草を入れたものなどものすごい種類がありました。 もちろん、パンもめちゃくちゃうまい! これらを買って、夜はワインでリラックスです。 フランス人の食事にかけるエネルギーのすさまじさ。素晴らしい!




フランスサイクリング その2


スペインの荒々しい乾いた大地を走り終え、フランスに入ったのは、1986年11月26日。 フランスは一転して、ビロードのような牧草地が広がります。 写真は、プロバンス近郊の運河。ちょっとした風景が非常に美しい。その中をサイクリングで走り抜ける快感は何物にも代えがたいものがあります。 印象派やその後の芸術家を輩出したお国柄がしのばれます。




イスラエル その1


フランスの地中海岸を走り、イタリアで1986年のクリスマスを迎えました。
が、さすがに欧州の冬は寒く、ギリシャにいくも、サイクリングを楽しめる雰囲気ではありませんでした。
そこで、思い切って、イスラエルへ。アテネ外港のパトラスから、2泊3日の船旅。フェリーは途中、ギリシャのロドス島と、キプロスに立ち寄り、やがてイスラエル北部のハイファに到着しました。

1986-87年は、まだ投石によるパレスチナ人の抵抗などは始まっておらず、やや安定した状態だったようです。
イスラエルは、だいたい九州ぐらいの面積で、北部からレバノン・シリア・ヨルダン・エジプトに囲まれています。当時、イスラエルから地続きで出国できるのはエジプトだけであり、また国土が細長いので、よく同じツーリストに何回も出会いました。 観光としては、非常にたくさんの資源があって、

・十字軍以来の城壁都市 Akko
・キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地 エルサレム
・キリストの歩みを巡礼するコース、ベツレヘム、ナザレ、ガレリア湖、エルサレム
・世界で一番低い土地と高濃度の塩湖で有名な死海
・隕石や火山でなく、自然の風化でできた巨大クレーターがあるミツペラモン
・ユダヤ人がローマ人に反抗し、立てこもって全滅したマサダ山
・紅海のサンゴ礁がすばらしいエイラット
 など、どれも世界一級のものです。
行ったことがあるという人があまりいませんので、イスラエル編は少々多く書きたいと思います。

イスラエルサイクリング その2 世界遺産Akkoへ


1987年1月11日ギリシャ発のフェリーはハイファに到着。 着いたその日は、ハイファのユースホステル泊、イスラエルに関する英語の観光ガイドを購入。 翌日、斜面にへばりつくように広がる港街lから、北側に見えるアッコへサイクリング。 この町は、その後世界遺産に登録されています。
情報はこちら。http://www.mochi3.com/sekai/ 

イスラエルは、もちろんユダヤ人の国ですが、自分にとっては、ユダヤ人も初めて。 ヘブライ語も知らないし、パレスチナのこともよくわからない。 この国で英語が通じるのかもわかりませんでしたが、子供から皆英語を理解してくれて助かりました。ユダヤ人は非常にジェントルでした。世界に流布するユダヤ人の評判とか、テレビでの印象とは違いました。  
写真は、アッコ旧市街での子供たち。この町は、多くのパレスチナ人が定住することでも有名なようです。
日本の印象はズバリ「空手」でした。まだ、イスラエルの社会がどうなっているのかもわからない中で、この町にはモスクはいっぱいあるわで、少々混乱しました。 サイクリングができるのでしょうか?




イスラエルサイクリング その3 ゴラン高原


地中海岸のアッコから、さらに北上。 鉄条網で何重にも閉ざされたレバノン国境を左手に見ながら、ゴラン高原をサイクリングしました。 ゴラン高原は、第三次中東戦争で、イスラエルがシリアから奪い取った土地ですが、水資源の所有権やら、すでにユダヤ人が入植しちゃったりで、まだ返還はされておらず、イスラエルとシリアとの間には、薄い帯状に国連PKOが展開しています。 写真は、今も放置されるシリア軍の戦車。


道を除いて周りは、地雷原の看板ばかり。かなり緊張たサイクリングになりました。




ゴラン高原のとある道標。
銃弾のあとは、新しいのか?古いのか? とにかく、イスラエルは、周りの国と戦争を繰り返して領土を拡張してきました。 ゴラン高原、ガザ地区、ヨルダン川西岸・・・。 国防費は国家予算の半分とか、アメリカの援助がないと消滅するとか、いろいろ言われてました。占領地への入植など既成事実の構築など、かなり強引な点があるのは否めません。 が、いまから時計の針を戻すこともできないですし、これは非常に難しい問題です。

イスラエルサイクリング その4 ヨルダン川西岸


ヨルダン川西岸地区は、第三次中東戦争で、イスラエルがヨルダンから奪った土地です。 前出の、イスラエルで買ったガイドブックでは、ゴラン高原も含めてヨルダン川西岸はイスラエルの領土として書かれていませんが、帰国後見た一般的な世界地図では、まったく別の表現になってました。 1月21日 この日は、一気にこの地域を走りぬけてエルサレムまでサイクリングすることにしました。 ヨルダン川西岸では、通貨シュケルが使えるのか?治安は?言葉は?ホテルはあるの? まったく情報がないまま、160kmの無茶な行程。ただし、疲れたら地中海の方に向かっていけばいいや、というのも事実。


写真は途中の街で記念撮影。パレスチナの人たちは、なかなかフレンドリーでした。
どこか、1泊してもよかったかもしれない。 いくつもの丘を越えて、モスクからのコーランを聞きながら、異国情緒たっぷりのサイクリングでした。エルサレムに着いたのは、すでに日没後でした。

イスラエルサイクリング その5 エルサレムの1


ヨルダン川西岸をサイクリングし、エルサレムに到着。 エルサレムは、キリストが処刑された場所、ユダヤ人の宮殿があった場所、マホメットが天に昇った場所 ということで、3つの宗教の聖地になっています。

旧市街は、城壁に囲まれ、4つの居住区に分かれています。ユダヤ人居住区、モスリム居住区、キリスト教徒居住区、アルメニア人居住区です。路地は、非常に複雑に入り組み、歩いているといつの間にか人の家の屋根の上が通路になっていることもあります。中東戦争では、あの狭い市街に戦車が入ったと聞いて驚きました。



写真は、もっとも保守的なユダヤ人が住むという地域で見かけた、典型的ユダヤ人のスタイルです。
イスラエル以外でも、ニューヨークやアントワープでよく見かけます。ユダヤの習慣では、金曜の日没から、土曜の日没がお休みで、バスも商店もお休みです。また、この日は、特定の食材を食べる、とか日本では体験できない習慣もたくさんあります。

イスラエルサイクリング その6 エルサレムの2


エルサレムは、世界的な観光(宗教巡礼)スポットです。  1・キリストの墓があるという聖墳墓教会   =ゴルゴダの丘に建つ、といっても今は市街地のなかにあります。  2・キリストが処刑されるまでに歩いた受難の道。   ここで、一回目倒れた、とか某さんがキリストに水を与えたとか、巡礼のコースになっています。  3・マホメットが天に昇ったといわれる岩のドーム。   メッカ、メディナに続く、イスラム教第3の聖地  4・嘆きの壁   2000年前、ユダヤ人の王国があった際の宮殿の壁 ここまで、聖地が揃っているとすごいですね。十字軍はエルサレムをイスラム教徒から奪回するために遠征したんでしたっけ。当時(多分今でも)、エルサレムを歩くと、宗教的な場所に入るごとにボディチェックされました。


写真のM16銃を持った人は何をしているでしょうか・・・。 答えは、「小学校の生徒の社会見学を引率している」です。 ユダヤ人は、なぜ戦争を起こしてまでこの土地に建国したのか、それを子供たちや、若い兵士に教育する必要があります。国内ではこのような光景を数多く見かけます。

イスラエルサイクリング その7 死海編


イスラエルの超有名観光スポットといえば死海ですね! イスラエル北部に降った雨は、ガレリア湖にあつまります。すでにこの湖は標高マイナス260メートル。そこからヨルダン川を流れ、標高マイナス400mの死海に流れ込みます。ここは、世界で一番低い土地です。当然、死海の水はどこにも流れ出すことはなく、強烈な塩湖となります。


 体が異常に浮いて面白い! 水を少しなめてみると、口の中で塩味が爆発します。 溺れる危険はないのですが、ときどき風に流されて、ヨルダンに漂着してしまう人がいるとか!   死海の北部は、ガレリア湖の淡水が流れ込みますが、南部は本当のどんづまり。


 塩が析出していました。 死海沿岸は、リゾートのような土地もあって、サイクリングも楽しめました。

イスラエルサイクリング その8 南部砂漠地帯


 イスラエルの周辺の地図を見ていただくとわかりますが、南部は、西にエジプトのシナイ半島、東側にはヨルダンそしてそのすぐ隣がサウジアラビアです。イメージは「砂漠!」。その通りです。

エルサレムより南下すると、砂漠 というか荒れ地が続きます。 そんなサイクリングで、途中、ミツペ・ラモンという街に泊りました。 この街は、自然にできたクレーターで有名です。火山の噴火でもなく、小惑星の衝突でもなく、自然の風化によって地面に巨大なくぼみができています。

下の方に見える道路をバスで降りて行って、歩いて帰ってくるという荒っぽーい、商売っ気なしのウォーキングを楽しみました。クレータの底は玄武岩?の柱状節理が露出しているところとか、とにかく荒れ地でした。この道をさらに南下すると「紅海」に出られます。


下の写真は、クレータの端部。すごい標高差! 左上に集まっているのは、見学中のイスラエル兵です。 イスラエル国内をサイクリングしていると、よく兵隊の見学の集団を見かけます。 たとえば「死海文書」が見つかった場所・・死海沿岸の洞窟で見つかった旧約聖書の古ーい写しです。なぜユダヤの民がここに住んでいるか。それは神と約束したからである。したがって、イスラエルがここにあるのは当然なのだ・・という教育。 あとは「マサダ山」・・ローマの軍勢に囲まれたユダヤ人が立てこもって全滅した砦の遺跡。 イスラエルの徴兵は、当時男子3年。女子も1年の徴兵がありました。過去戦争した、シリア、ヨルダン、エジプトに囲まれ、国内にパレスチナ問題を抱えるので兵隊はたくさん必要です。

イスラエル サイクリング その9 ビーチリゾート


イスラエルは縦に細長い、九州ぐらいの面積の国です。 地中海沿岸の国、という印象がありますが、一番南端は紅海に接しています。 といっても、海岸線の面積は数kmでエイラットという街があります。西隣がエジプトのシナイ半島。東隣は、ヨルダンのアカバ港。これも海岸線は数kmしかありません。そして、その先はサウジアラビアです。当時から、サウジに入国するのは「メッカ巡礼のため」という理由でしかビザが出ない、と他の日本人ツーリストが言ってました。が、エイラットから見ると本当にすぐ目の前の赤い砂漠地帯なのです。へんな感じでした。 さて、このエイラットを含むシナイ半島近辺の紅海は、世界有数のダイビングポイントになっています。雨が少なく、透明度は抜群。スキューバの用意がなくても、シュノーケルをして浮いているだけで足元には色とりどりの魚にどこまでも続くサンゴ礁。サンゴの間には、とげの長いウニがどこまでもどこまでも生息していました。 で、そこから陸に上がると、そこは北欧からの直行便が到着する、避寒客のリゾート地になっています。トップレスの金髪美女がそこかしこにに寝そべっています。信じられん!


PLOがロケットを打とうが、ユダヤ人が東エルサレムの入植しようが、ここは全く関係ないビーチリゾートなのでした。 エイラットからは、自転車をたたんでバスに乗せ、またハイファまで。帰りも2泊3日の船旅でした。 さらば、イスラエル。

欧州・中東のサイクリングのおわりに 


船で、イスラエルからギリシャに戻り、今度はユースホステルに自転車を預けて、バスでイスタンブールを訪問。約1週間だらだらと滞在し、再度アテネに帰還。そこから鉄道でユーゴスラビア、ベネチアを経由し最終目的地スイスのチューリヒへ向かいました。 86年7月の下旬にスイスに降り立ち、87年3月まで7か月半の旅でした。 もちろん、このたびは自分に一生の宝となったのは言うまでもありませんが、最後の方は、自分でも思いもしなかったこととの戦い(?)でした。それは好奇心の磨滅との戦いです。 欧州に降り立った当初は、石畳の道さえ物珍しく、しきりにシャッターを押していましたが、後半は「ま、行くのしんどいからいいか・・」「聞くのもめんどうだし・・」「ま、見なくても支障はないしな・・」と、流す旅に。それだけならいいですが、欧州に戻ってきて、卒業旅行でやってきた日本人にちょっと先輩面してみたり・・。私の好奇心は、いったん半年程度でリセットしたほうがいいと感じました。旅先にあって思うのは、日本の同好会の友達とか、これから始まる就職活動とか、そういう日本での現実だったような気がします。  最後、ちょっとアレレという話になりましたが、正直な思いでした。ま、欧州の冬は寒い!というのも一因ですが・・。


写真は、旅の終わり、チューリヒの湖畔にて。希望と不安でいっぱいだった自分が7か月前に初めてキャンプで一泊めをしたところです。髪は7ヶ月間切らず。体力より、好奇心が摩耗して、注油が必要でした。 ということで、86年から87年の一連の欧州・中東旅日記はいったん終了。 ほかにもある面白い文物の写真などは、時間を見てアップしてみたいと思います。 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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